先日仕事中に、ダムの管理所の食堂でカップラーメンを食べていた時のことです。
ふと下を見るとカメムシがひっくり返った状態で足をバタつかせているのを見ましてね。
「あら。」と思ったんですけども。
カメムシは嫌な臭いを出しますので苦手なんです。
「あらあら。」と思いながらも
特に気にも止めずにカップラーメンをすすっていますと
何となくカメムシの存在が気になり始めましてね。
よく見てみるとカメムシは一番長い後ろ足でひっくり返った身体を元に戻そうとして床に足を少しひっかけては回転し、ひっかけては回転しを繰り返しているんです。
床はタイル張りになっていて摩擦が無いもんですから、カメムシのひっくり返った状態の足が床を蹴ろうとしても滑ってなかなか上手く蹴れないみたいなんです。
それでカメムシはひっくり返った状態で足をバタたつかせて
右に回転したり左に回転したりしているんです。
クリンクリンしているわけです。
「どれくらいの長い時間このクリンクリンを繰り返しとんのかな?」と思いましてですね。
神は、、、カメムシがひっくり返っても元に戻れるようにその後ろ足と元に戻るための足の動かし方を与えたけれどツルツルのタイルの上でひっくり返った場合のことは想定していなかったのだろう。と思いましてね。
このままこのカメムシが虚しくクリンクリンを繰り返して
衰弱して過労死してしまうのは気の毒に思いましてね。
カメムシを触るのは嫌だったんですが
「このままカメムシを過労死させるわけにはいかない!ようし!まかせておけ!」
と思いましてですね。
「神様や!神様や!」
言いながらですね。
とは言え直接触るのは嫌なのでカップラーメンの蓋を細長く何度も折って棒状にして、カメムシのひっくり返ったお腹に当ててやりましてね。
カメムシがラーメンの蓋をガシっと足で掴みましたのでそのまま窓のところまで運んで窓の外にポイっと逃がしてあげました。
「ああ。めでたしめでたし。」でございます。
何となく良いことをした気分になりましてね。
「やっぱり神はすごいなあ…。」と感慨深かったんです。
カメムシの後ろ足一本にも神経があり、血液が流れ、細胞が密集し複雑な組織が「完璧」に機能しています。
こんなことは神にしかできない創造でして、
どうやって創ったのかな?と思うほど生命の神秘がスゴイわけです。
それと同様に床の上でクリンクリンしているカメムシに、僕が慈悲心を抱いてカップラーメンの蓋で助けてあげる一連の行動も実は神が創造した生命の機能の一つなのだろうと思ったわけです。
つまりカメムシの窮地を助けた僕の一連の行動は、イコール、カメムシの後ろ足の延長のような存在だったのではないか?。。。と。
あの時の僕は人間というよりも、カメムシの後ろ足の一部的な存在だったのではないか?と思います。
神の目から見ると「カメムシ」も「カメムシを助ける為の一連の行動」も神が創造したものです。
神が創造したと言う意味では両者に違いはなく、
「同じ一つのもの」とみなすことが出来ます。
僕はカメムシを助ける一連の行動をとることによって
ひっくり返った身体を元に戻すための「カメムシの後ろ足」の一部になったんじゃないか。。。と。
神の道具になるとはこういうことを言うのではないかと。
最初はカメムシの後ろ足にはツルツルの床でひっくり返った場合には身体を元に戻す機能は無いと思いましたがそうではなかったわけです。
カメムシの後ろ足にはツルツルの床でもちゃんと元に戻れる機能が最初から備わっている。と考える事が出来ます。
それがまたスゴイなあと。
やっぱり「神様や!神様や!」ですわ。
ところで僕が食堂に入って足下のカメムシを見つけた時に
ひっくり返ったカメムシは足をバタつかせて自分で出来る限りの努力をしていたわけですが。
もしそれがなくカメムシが努力を怠って寝ていたら僕はカメムシの存在に気付かずそのままカメムシは死んでいたかもしれない。と思いましてね。
カメムシが足をバタつかせて出来る限りの努力をしていたからこそ
僕の目に止まり慈悲心を起こさせて一連の行動につながったのだと思います。
同様に霊界からの援助、神からの援助の霊力もこのようにして届けられるのだろうと思います。
まずは神に先天的に与えられた手持ちの材料・手持ちの力で精一杯努力してみてみると良いわけです。
例えその努力が間違っていたとしても、あるいは一見虚しい努力に見えたとしても、とにかく努力をしてみればいいのです。
そうすると例え手持ちの材料・力では及ばないことがあっても、神の霊力が働いて何らかのプラスアルファの助力が得られるのだろうと思います。
それを実感した出来事でした。
あの時のカメムシは今頃何をしているのかな?なんて思ったりします。
元気でいてくれるといいなあ。。。
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