15年前くらいの時に憑依が深刻化して身も心もしんどかった時があります。
今はもう憑依が深刻化する事はないと思っていますが、
憑依は今もあるのか?というと「ある」と思います。
(僕は「憑依」という言葉をかなり広い意味で使っているところはありますが)
でもあまり気にはしていません。
普通に生活していてもバクテリアやウィルスなど
目には見えないバイ菌について特に気にしないのと同じです。
瞑想をスタートさせたすぐくらいの時やうとうとしている時に
「声にならないような声」をガヤガヤ聞く事もあります。
これを憑依霊と呼ぶべきかどうかは解りませんが、
確かに誰か地縛霊がいてワイワイやっているようにも思います。
声は聞こえるような印象はありますが、その意味内容は
ほとんど意識には入ってきません。
先日は
「トイレはどこだ?」
という声を聞いたように思います。
もしかしたら幽界でトイレを探している地縛霊の声かも知れません。
内容的には全くどうでもよいものばかりという印象です。
オカンの井戸端会議的な会話にはほとんど霊的価値はないのと同じです。
ワイワイガヤガヤやっているけど全く心に入ってこないという感じです。
昨日は地縛霊と思われる二人の中年女性がめっちゃ近い位置で熱心に何か宗教の勧誘をしてきました。
意識が混濁している時なのでボーっとつい勧誘されそうになって焦りました。ビクッとなりました。
カルト宗教の盲信者というのは死んでも盲信をやめようとせず、地上圏に留まり同じようなタイプの人に憑依して盲信の再生産に影響を与えていると「迷える霊との対話」にはありますがその通りだと思います。
盲信者というのは地縛霊になりやすいので注意していただきたいと思います。
(僕のこと???)
普通の人は地縛霊を怖がりますが、地上に生きている地上人である我々自身がある意味地縛霊なのであって怖がる必要はないと思います。
そもそも地縛霊であっても生命を生きているわけです。
生命とは大霊(神)の生命です。
つまり地縛霊も大霊(神)の生命を生きているわけです。
霊的成熟度に差異はあるかもしれませんが
シルバーバーチのような高級霊も
幽界を迷っている地縛霊も地上の地上人も
同じ大霊の生命を生きているのです。
大霊の生命を生きている地縛霊の正体は大霊ですので
これを怖がったり排除したりする「ビビった考え」を持つべきではないと思います。
憑依による苦しみはその人自身のカルマに原因があるのであって
憑依霊はむしろそのために仕事をしてくれているという考えです。
憑依で苦しんでいる人がいても
「基本はそのままつけておけばよい」と思います。
出来ることがあるとすれば祈りによって愛を送ることくらいです。
愛と祈りは大霊の摂理に適った万能薬だと思います。
むしろ地縛霊を怖がったり排除したりするビビった考え、
その心のあり方、心配の念のほうが悪影響があるのではないかと思います。
もし憑依があってもむしろ
「よっしゃ。しっかりついておけ!一緒に大霊を学ぼうやないか!」
ぐらいの気持ちを持っても良いと思います。
こういう気持ちの明るさや元気さ積極性が重要だと考えます。
というより例え地縛霊による影響があったにせよ
それで大霊を学べるのならそれはそれで良いはずですので
怖がったり心配する必要はそもそも全くないと思います。
シルバーバーチも言うように
「心配の念」は蹴散らさないといけません。
世間では地縛霊の祟りがどうのとか、オドロオドロしい祈祷によってお払いしなければならないとかの話がありますが
「地縛霊みたいなことを言ってるんじゃない!」
と思ってしまいます。
そんなことを言っている人自身が地縛霊的です。
地縛霊をビビっていてはいけません。
生命の本源は大霊ですので
迷っている地縛霊も大霊の命を生きています。
地縛霊もその本質は大霊です。
大霊を怖がることは出来ません。
大霊を心配することも出来ません。
なぜなら大霊しか存在していないからです。
大霊しか存在していないのに一体何を
怖がったり心配したりする必要があるのでしょうか?
大霊を怖がったり心配したり、、、
そのようなことはそもそも最初から出来るはずもないこと、
構造的に不可能なことなのです。