ほとんどの人は肉体が「自分」の本源であり生命の本源と考えていると思います。
肉体が死んで無くなれば、それを本源としていた「意識」も消えて無くなると。。。
電気機器と電源の例えで言いますと。
テレビやエアコン、冷蔵庫などの電気機器は
電源から電気というエネルギーを得て動いています。
電気機器にはコードがあって差込プラグがコンセントにつながっています。
ほとんどの人が人間に意識があるのは「肉体」というコンセントに意識を働かせる脳からのプラグがつながっていて、そこ(肉体)からエネルギーを得ているから「意識」が成り立っているのだとイメージしていると思います。
もし肉体という電源を供給する本体が無くなると「意識」も消えるのだ。と考えるわけです。
「虚無」になってしまう。と。
僕も霊的なことに関心を持つ前までは同じように思っていました。
「人間、死んだら終わりだ」と。
ほとんどの人は自分のこの肉体こそが「自分(意識)」の本源、
生命の本源であるという感覚的な思い込みがあるため、
肉体の死後も人の「意識」が存続し続けるという霊的事実を上手く飲み込めないのだと思います。
人間の肉体が死んでシルバーコードが切れ、霊体だけになった直後は混乱して自らの死を上手く理解出来ないと言います。
自らの「意識」は依然として存続して、おまけに身体(霊体)まであるので、まさか自分(の肉体)が死んでいるとは思いもよらないことのようです。
こうしたところにも「肉体こそ自分(意識)の本源」という物的感覚が影響しているように思います。
しかし肉体が無くなってもその人の「意識」は残ります。
つまり肉体というコンセントからプラグが抜けても「意識」は生き続けるのです。
「意識」は肉体からエネルギーを得て成り立っているのだ、、、
という思いこみが混乱の大きな原因のように思います。
何故人間は死んでも生き続けるのか?
つまり肉体が死んでも「意識」はそのままなのか?
そもそも「意識」はどこからエネルギーを得ているのものなのか?
を考えますと。。。
次のようにイメージしてみてはいかがでしょうか。
一言で言うと人間の「意識」は、
「神」から生命のエネルギーを得ているのです。
生命の本源は常に「神」です。
「意識」の本源も常に「神」です。
人間が何故肉体の死後も霊となって生き続けるのかというと、
そもそも「意識」のプラグは「神」というコンセントに直接つながっていて、そこからエネルギーを得て成り立っているからです。
しかもこのプラグとコンセントの関係は絶対に切れることがありません。
人間の自由意志でプラグを抜いてやろうと思っても抜けるものではありません。
例えば自殺をする人は、自分の意識の本源は肉体だと考えるわけです。
そして肉体を消してしまえば「意識」も消えるだろうと思って生命のプラグをコンセントから抜こうとします。
しかしそれは間違った思いこみで、生命のプラグは肉体ではなく「神」に直接つながっていて絶対に抜けない構造になっているのです。
自殺は不可能です。
また同様に他殺も不可能です。
構造的に不可能なのです。
同様に死別も不可能です。
自殺者や殺人者は「自殺も他殺もそもそも不可能である」という絶対的な霊的事実が心底理解出来るまで、凄まじい苦しみの中で学ばねばなりません。
あるいは死別を悲しむ人は、「死別はそもそも不可能である」というその事実を心底理解出来るまで苦しみの中で学ばねばならないのだと思います。
そもそも「生命」はこれを滅ぼしてやろうと思っても滅ぼす事は出来ません。
なぜなら生命とは「神」だからです。
何故人は死なないのかというとその本体は「神」だからです。
人は「神の生命」を生きているから死なないのです。
シルバーバーチも言うように
「大霊(神)とは生命であり、生命とは大霊(神)です。」
我々は生命そのもの、生命のエネルギーそのものである「神」と
絶対に切れない絆でつながっていて、いわば「神の生命」を生きているわけです。
本当に生きているのは「神の生命」ただ一つです。
「私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることは出来ないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。」
シルバーバーチの霊訓〈1〉
(シルバーバーチの霊訓1 潮文社P36)
我々の生命はそもそも最初から「永遠」であり「不滅」です。
「神」の無限の愛に包まれている我々は、それ以外のあり方がそもそも出来ないようになっているのです。
人間が死ぬなんてことはそもそも最初から構造的に不可能なこと、
想像することすら出来ない絶対にあり得ないことなのです。
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