障害の霊的解釈。霊的穢れ・カルマを浄化する「場」の現われが「障害」となって表れているのではないか

地上的(物的次元)な視野では障害を「不幸」「不条理」「不平等」「不公平」などと捉えがちです。

地上的な物的視野では障害はネガティブなものとしてそう見えるのかも知れません。

しかし霊的視野で見ると障害者は広く社会(霊的共同体)の為に
そのような「霊的な仕事」をしてくれている存在と考えることが出来ます。

人間界が作ってきた霊的穢れ(カルマ)を「浄化」する「場」の現われが「障害」となって表れているのではないかと思います。

例えば精神的な病は地縛霊の憑依によって引き起こされると僕は考えていますが、
憑依による苦しみはその人自身のみならず広く人類が作ってきた霊的穢れを浄化しようとする神の法則が法則通りに機能している結果であり、
その意味で憑依霊は(自分ではそのつもりはなくても)そういう仕事をしてくれているという要素があると思います。

また障害者は自身の身を犠牲にして霊的浄化の為の「場」を世に提供してくれていると考えることが出来ます。

霊的浄化や霊的成長はその人個人の問題だけではなく広く人類全体の霊的共同体の浄化と向上にも関連連動しているのではないかと思います。

健常者としては障害者の霊的浄化の仕事が無事に成就されるようにサポートし、
また社会は障害者を霊的にケアすることがなすべき霊的な「仕事」になるのだと思います。

ですので
障害の苦しみを「不幸」だと捉えない方がいいです。
そのように解釈している内はそれこそ「不幸」な状態です。

神が間違ったからその障害があるのではなく
神が間違わなかったからその障害があるのです。

その「障害」がもし無かったとしたら
それこそその人の人生は台無しになってしまうでしょう。

まさに「不幸」「不条理」「不公平」「不平等」が存在しない証拠として
その「障害がある」のです。

障害は不幸ではなく神の愛の証明です。

そしてその障害に感謝しながら神と共に生きることが
その人が納めるべき神から与えられた「仕事」なのだろうと思います。

 

 

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